Scene13 1/2
――黒崎くん。
彼の名前を、胸の中で囁いた。
黒崎くんはクラスメイトだ。同じ5年1組。でも話をしたことはない。
彼は怖い男の子だ。みんなそう言っている。
すぐ怒るわけでも、暴力的なわけでもないけれど、いつも無口で、笑うことなんてなくって、不機嫌そうに口を歪めたりする。背も高くて、なんだか怖い。
でも、そこにいる彼は違っていた。
モップの背中に右手を置いて、仄かに口元をほころばせていた。
――どうしよう?
モップにからあげをあげなくちゃ。でも、黒崎くんに話しかける勇気はない。逃げ出したいのに、タッパーにはサラダもサンドウィッチも入っている。
混乱していると、黒崎くんがこちらを見る。
「あ、吉川」
まだ声変わりしていない、可愛らしい声。外見にはまったく似合わない。黒崎くんの声を、初めて聞いた気がする。
彼が私の名前を呼んだのは、たぶん本当に初めてだ。
この頃の私は、まだ吉川アユミだった。
岡田アユミになるのは、高校を卒業する頃のことだ。
私の名前を呼んだきり、黒崎くんはしばらく黙り込んだ。
じっと私の顔を見て、それから手元のタッパーに視線を落とす。
食べ物が入ったタッパーを大事に抱えているのが、急に恥ずかしくなったのを覚えている。
彼はゆっくり、頷いて。
「こっちこいよ」
言った。
「それさ、こいつにやるんだろ?」
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