Scene19 1/4

 黒崎くんは戻ってこない。
 もう1時間も経っていた。
 自動ドアが開く音が聞こえて、ようやくか、と思ったけれど、別人だった。
 白い帽子を被った女性が、どこか忙しない歩調で動物病院に入ってくる。
 第一印象は「おばさん」だ。40代か、50代。大人の歳はよくわからない。10歳も違えばわからないわけがないと思うけれど、実際にわからないのだから仕方がない。たぶん大人は、変化がとてもゆっくりなのだろう。
 白い帽子のおばさんは、しばらく受付のお姉さんと話をしていた。それから、あの獣医が現れた。獣医はケージに入ったモップを連れている。
 獣医と白い帽子のおばさんは、にこやかに会話を交わす。それからおばさんは財布を取り出し、数枚の紙幣をカウンターに置く。
 頭を下げて、振り返ったとたん、おばさんの表情から笑顔が消えるのが、私の位置からなら見えた。
 おばさんが自動ドアの前に立つよりも先に、それが開く。今度こそ黒崎くんだ。
 慌てた様子の彼の肩が、おばさんに軽くぶつかる。
 彼はぺこりと頭を下げる。
「すみません」
 白い帽子のおばさんは、ちらりと黒崎くんを見て、なにも言わずに動物病院を出て行った。

 黒崎くんはカウンターの前に立つ。私もソファーから立ち上がり、彼に近づいた。
「これで、足りますか?」
 彼はポケットから、むき出しの紙幣を取り出す。カウンターに置いた。
 獣医は、少し困った風に顔をしかめる。
「あー、いいよ」
「え? いいって?」
「必要なくなった。飼い主が見つかってね、もう治療費はその人から受け取った」
「見つかった、って」
「たまたま、心当たりがあってね。連絡したら、その人だった」
 黒崎くんはしばらく、カウンターの紙幣を眺めていた。
 彼の顔には表情がなかった。工場で作られたばかりの部品みたいだった。
「その人は、信用できますか?」
 と、彼が言った。
「引越しをして、犬は飼えなくなったらしいよ。でも、実家のお母様が引き取ってくれることになっていたそうだ。移動の途中でこいつが逃げ出して、探していたんだってさ」
「どうして」
 黒崎くんの声は震えていた。
「どうして移動中に、首輪を外したんですか」
 獣医は、その質問には答えなかった。いや、本当は答えていた。ほんの少しだけ遠回りに。
「君のおかげだよ。たぶんね。君がいろんな人に飼い主のことを聞いて回ったから、きっとあの人はお母様に頼んだんだろう。ペットの命よりも外聞が大事な人だっている」
 黒崎くんは、カウンターの上の紙幣を掴んで。
 ありがとうございました、と頭を下げて、動物病院を出た。


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