Chips - no.44「ある出会い2」

 西野原桜は、「彼女」のランニングコースを、ゆっくりと歩いた。
 かつて「彼女」と暮らしていたマンションの前から出発し、三ノ宮駅の南側に出て、そこから東へ。
 消防署の前を通り、生田川を渡り、さらにまっすぐ。
 地下に阪神春日野道駅がある辺り、有名な回転寿司チェーン店の脇のボードウォークに入り、南下した。
 ボードウォークから小学校のグラウンドを眺めて、さらに進むと、海岸に出る。
 海沿いを東へ。
 右手にみえる摩耶大橋は、運搬トラックが多く通っている。その、『H.W.L.上.18M』と書かれた表記のちょうど向かいに、奇妙な男がいた。
 二十代半ばほどの男だ。
 テンガロンハットのような形の麦わら帽子を被っている。奇妙なファッション。彼は絵を描いているようだった。目の前の、狭い海の絵を。
 彼の前を通り過ぎようとした時、声を掛けられた。
「あの、すみません」
 どこか怯えたような、小さな声。
「もしかして、貴女、笑うと左目が細くなる女の人を知りませんか?」

 聞けば、彼は以前――もう4年も前――に、「彼女」と一緒に走る西野原を目撃していたのだという。
 2人は、ほんの短い間、会話を交わした。
 こんな会話だ。

「ただ、もう一度だけ、彼女に会いたいんです。だからずっと、ここで絵を描いているんです」
「あの子が好きだったの?」
「ええ、まぁ。別に彼女の何を知ってるわけでもないんですけど。なんとなく、勝手に彼女が、オレの希望みたいになっちゃって」
「そう」
「でも、きっと彼女にしてみれば、迷惑でしょうね」
「どうして?」
「彼女には素敵な恋人がいるみたいだから。とっても幸せだって、言ってました」
 西野原桜は泣かなかった。
 そっと彼に告げた。
「大切なものを失くしたの」
 彼は怯えたように尋ねる。
「恋人、ですか?」
「ええ。4年前に。そして今度は、憎むべき敵を失くした」
「それが、大切なものですか?」
「私も気づいてなかったけど。思えば4年間、あいつらのことばかり考えていたから。きっとあの子のことよりも長い時間」
「悲しいんですか?」
「そんなわけないじゃない。すっきりしたわよ。すがすがしい」
 狭い海の上、空はよく晴れていた。
 雲のない青空は、すがすがしく、でもぽっかりと開いた大きな穴のようでもあり、なんだろう、奇妙に泣きそうになる。そう西野原桜は感じた。
「これからどうするんですか?」
 と絵描きが言った。
「出頭するわよ」
 と西野原桜は答えた。
「出頭?」
「ええ」
 少しだけ笑って。
「私、つい最近まで、トレインマンだったの」
 西野原桜は海岸を後にした。

「彼女」のランニングコースは続く。
 久しぶりに、本当に久しぶりに、「彼女」の左目が細くなる笑顔を思い出して。
 記憶につられて、西野原桜は微笑んだ。
 ――私はこの4年間で、いくつもの間違いを犯してきたけれど。
 にも関わらず、どこかの神様が、私まで救ってくれたのだ。
 そう、西野原桜は感じた。


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