Scene5 23:30〜 2/3
いくつもの海が、アスファルトの上に散らばっている。
何枚もの画用紙に描かれた、静かで狭い海だ。高い位置に大きな橋がかかっている。
その、あまりに場違いな絵を、私はしばらく呆然と眺める。
「おっさん、急に出てくんじゃねぇよ。びっくりするだろうが!」
叫び声で顔を上げる。
大久保が、20代半ばほどの男性に掴みかかっていた。
変わった男性だ。特徴的な、テンガロンハットのような形をした麦藁帽。玩具みたいな大きな眼鏡。長いTシャツの上に、何か柄のついた赤いベストを着ている。明らかに怪しげな出で立ちだけど、まだ「おっさん」という歳には見えない。
慌てて立ち上がる。
「やめなよ」
状況がよくわからないけれど、ぶつかったのは走っていたこちらだろう。それから慌てて、背後を確認した。よかった、誰も追ってきていない。
決まりが悪そうに、大久保が頭を掻く。
「ああ、悪い。ちょっと気が立ってて」
ようやく、大久保が男性から手を放す。
私はその男性に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい。あの――」
大久保が、また私の腕を引いた。
「悪かったな、おっさん」
走り出す。
先ほどまでよりは、いくぶんゆっくりとしたペースで。
振り返ると、男性はちらばった絵を拾っていた。手伝いたかったがさすがにそんな余裕はない。
ふと思い当った。
「伝えなくてよかったのかな?」
「ん、なにが?」
「あの人に、トレインマンのこと」
近くに、殺人鬼がいるのだ。
「ああ――」
しばらく言葉を詰まらせて、大久保は言った。
「大丈夫だろ。そんなこと始めたら、街中みんなに叫んで回らなきゃいけなくなるぜ? 選挙カーが必要だ」
「じゃあ、そうだ、警察に」
私はポケットに手を突っ込む。
「待て、オレがかける」
大久保はスマートフォンを取り出した。
私は、ようやく告げる。
「ありがとうございました」
「ん?」
「命の恩人なのに、まだお礼も言ってなかったね」
笑って、大久保はスマートフォンを振った。
「やっぱさ、メアド教えてよ」
え。今?
「ほら、もしはぐれても、連絡取れるからさ。あ、電話番号も教えてね」
思わず笑う。
「とにかく、警察に連絡だよ」
ちぇ、と漏らして、大久保はまたスマートフォンに視線を戻す。
「フルハート」
と私は言った。
「なに?」
「フルハート、ゼロゴー、ゼロゴー。私のメアド」
初めてアドレスを持った時から、ずっと同じだ。PCも携帯電話も、同じ「fullheart0505」。後ろのドメイン名が変わるだけだ。
理由がなければ男の人にメールアドレスを教えないのも、昔から決めていることだった。どれだけ友達に馬鹿みたいだと言われても続けてきた。メール――というか手紙は、私にはとても大切なものだから。
でも、今は非常事態だし、相手は命の恩人だ。
「電話番号は?」
と大久保が言った。
「イチイチゼロ」
と私は答えた。
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